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2月20日は歌舞伎の日!意味や由来・歴史など解説!何の日?

2月20日は歌舞伎の日 2月

2月20日は歌舞伎の日だね!

歌舞伎と言えば、出雲阿国を学校で習ったよ。

仁という医療漫画でも歌舞伎が出てきて、重要な役割を果たしてたわ。

今回は、2月20日が歌舞伎の日になった意味や由来など紹介するわね!

1607年、この日に出雲阿国が江戸城で徳川家康や多数の大名たちの前で、初めて「かぶき踊り」を演じたことから、2月20日は歌舞伎記念日とされています。

出雲阿国は、少女たちの小歌踊り「ややこ踊り」から派生した「かぶき踊り」を創り出した安土桃山時代の女性芸能者です。

この踊りは後に様々な形を経て現代の歌舞伎に発展しました。

出雲大社の巫女として活動し、その才能で名を馳せたと伝えられていますが、彼女の出身地は定かではありません。

2月20日は歌舞伎の日

「かぶき」という言葉は、「傾く」の古語から来ており、非常識な行動を指す言葉でした。

「かぶき踊り」はその名の通り、斬新で派手な装いや動作を特徴とする踊りです。

歌舞伎は、戦乱の時代を経て新たな平和の時代に生まれた伝統芸能で、もとは風流踊りが基となっています。

江戸時代の民衆文化の下で発展し、男性のみによる演技が特徴的です。歌舞伎の表記は明治時代に定められ、「歌」「舞」「伎」はそれぞれ音楽、舞踊、技芸を意味します。

出雲阿国が関与した歌舞伎の初期は、女性が男性役を演じる異色の舞台で、その衣装や振る舞いは当時の常識を超えたものでした。

阿国自身が男装し、伝統的な男女の役割を逆転させた「かぶき踊り」を広めたことで、歌舞伎は女性によって始められた芸術形式と言えます。

江戸時代のファッションリーダー「傾奇者(かぶきもの)」

「かぶきもの」とは、江戸時代の始まりに登場した、異常な装いをした当時の「反逆者」のような存在です。

彼らは、派手な衣装や化粧、奇抜な髪形で人々を驚かせ、時には過激な遊びや浪費、無作法な振る舞いをしていました。

「かぶき」という語は、「傾く」という意味の動詞から派生し、「傾奇」とも表記されます。

この用語は、一般的な行動やファッションから逸脱した独特な振る舞いを示し、特に関ヶ原の戦いの後から大坂の陣の頃にかけて、京都で流行しました。

「かぶきもの」は、江戸時代の風俗を描いた浮世絵や文学作品にも頻繁に現れ、そのユニークなファッションや行動が描写されています。

阿国が模倣?

阿国は、この流行していた「かぶきもの」たちを模倣し、「かぶき踊り」を通じて大きな人気を博しました。

もし「かぶきもの」がただの迷惑な存在だけだったら、「かぶき踊り」が大きな反響を呼ぶことはなかったでしょう。

その人気は、戦乱の時代を生きた庶民が、自由奔放な「かぶきもの」たちに抱いたある種の憧れに起因するものだったかもしれません。

阿国の男装は、当時の先端を行く「かぶきもの」のスタイルを反映していたため、当時の流行の傾向がうかがえます。

江戸初期には、異国の趣を取り入れたアクセサリーやファッションが流行し、「かぶきもの」の装いもその一環でした。

歌舞伎の変遷と生き残り

阿国によって始められたかぶき踊りは、やがて全国に広がりました。

その背後には、遊郭の存在がありました。

初期には、遊女が演じる「遊女歌舞伎」が流行しましたが、その内容が風紀を乱すものとして1629年に幕府により禁止されました。

この禁止により、女性が舞台に立つことが禁じられ、一時期女性俳優が存在しなくなりました。

しかし、歌舞伎への熱意は冷めず、遊女に代わり少年が演じる「若衆歌舞伎」が登場しました。

女方の登場

この形態では、男性ならではのパフォーマンスやアクロバティックな動きが取り入れられ、「女方」が女性役を担うようになりました。

若衆歌舞伎もまた、色情を含んだ内容となり、幕府により禁止されてしまいました。

これにより、「野郎歌舞伎」が誕生し、成人男性のみによる演技が義務付けられました。

この制限の中で、歌舞伎は独自の芸術形式を発展させ、物語や演技に焦点が当てられるようになりました。

特に女性役を演じる男性たちは、女性らしさを追求し、歌舞伎を洗練された芸術に高めました。

大衆演劇の衰退と日本文化への変遷

歌舞伎文化がその全盛期に向かおうとしていた時、天保の改革による贅沢禁止の政策が施行され、歌舞伎は厳しい規制を受けました。

これにより、演目や演出にも制限が加えられ、歌舞伎座は中央区から浅草に移転させられ、役者たちの社会的地位も下がりました。

明治維新を迎え、政府の介入により、一度は衰退した歌舞伎が世界に誇る日本の文化として再び高められる動きがありました。

歌舞伎と出雲阿国の関係についてのまとめ

かつて歌舞伎は庶民の娯楽でしたが、明治時代に入ると近代化の流れの中で、より格式高い時代劇として位置付けられるようになりました。

この変化から、歌舞伎が高尚な文化であるというイメージが私たちの中に定着したのでしょう。

しかし、歌舞伎の歴史を紐解けば、それが常に人々の感情を揺さぶり、大衆のための舞台であったことが明らかになります。

最後までお読みいただきありがとうございました!