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8月11日はガンバレの日!記念日の由来など解説!何の日?

8月11日はガンバレの日!記念日の由来など解説!何の日? 8月

8月11日はガンバレの日だね!

僕は生まれてなかったけど、前畑さんの記念日なんだって。

実況の人が23回もガンバレと言ったらしいわ。

今回は、8月11日がガンバレの日になった由来など紹介するわね!

8月11日が「ガンバレの日」とされている理由をご存知でしょうか?

この記事では、その背景にある歴史や、NHKドラマ『いだてん』に登場する前畑秀子について解説し、さらに日本各地の「ガンバレ」に相当する方言もご紹介します。

ガンバレの日(8月11日 記念日)

1936年8月11日、ベルリンオリンピックの女子200m平泳ぎ決勝で、日本代表の前畑秀子(1914〜1995年)が地元ドイツのマルタ・ゲネンゲルを抑え、優勝を果たしました。

この時、NHKラジオで初めてオリンピックの実況中継が行われ、アナウンサーの河西三省(本名読み:かさい みつみ)が「前畑ガンバレ!」を23回、「前畑勝った!」を12回繰り返し、その熱意溢れる放送は日本中を感動させました。

この出来事を記念して、「ガンバレの日」が制定されました。

前畑秀子とは?

前畑秀子は、和歌山県出身の日本人女性初のオリンピック金メダリストです。

NHK大河ドラマ『いだてん』では、女優の上白石萌歌さんが前畑を演じています。

前畑秀子の人生は、数々の困難を乗り越えながらも水泳で輝かしい成績を残したもので、特に彼女のオリンピックでの活躍は日本中に勇気を与えました。

1914年5月20日に和歌山県で生まれた前畑は、幼い頃から水泳に親しみ、次第に頭角を現しました。

名古屋市内の椙山高等女学校に進学してからは、本格的に水泳に打ち込み、多くの大会で日本記録を更新するまでに成長しました。

しかし、1931年には両親を相次いで亡くすという悲劇に見舞われます。

それでも、1932年のロサンゼルスオリンピックで銀メダルを獲得し、さらなる努力を重ねて1936年のベルリンオリンピックで金メダルを獲得しました。

日本各地の「ガンバレ」の方言

東京2020オリンピックでも「ガンバレ」の声援が全国から届きましたが、日本各地で使われる「ガンバレ」の方言には、地域ごとの特徴があります。

以下にいくつかの例を挙げます。

  • 北海道・青森:「けっぱれ~」
  • 石川:「がんばりまっし~」
  • 名古屋:「がんばりゃ~」
  • 大阪:「きばりや~」
  • 京都:「おきばりやす~」
  • 熊本:「がまだせ~」
  • 宮崎:「がんばらんけ~」
  • 沖縄:「ちばりよ~」

それぞれの地域で、個性豊かな「ガンバレ」があることが分かります。

特に京都の「おきばりやす~」は、柔らかな響きで人気です。

オリンピックや特別な日には、これらの言葉で応援してみるのも面白いですね。

前畑秀子の偉業とその後

1936年のベルリンオリンピックで金メダルを獲得した後も、前畑秀子は水泳界で活躍を続けました。

彼女は日本の女性アスリートの象徴として、多くの人々に勇気を与え続けました。

引退後は水泳教室を開き、後進の指導にも力を入れました。彼女の功績は今も多くの人に称賛されています。

わずか0.1秒差の銀メダル

ロサンゼルスオリンピックの8月9日、女子200メートル平泳ぎの決勝に出場した8人の選手たち。

前畑秀子は、0.1秒の差で2位に終わりました。

優勝したのはオーストラリアのデニス選手でした。

この時、秀子は「1位になれなかった」という悔しさよりも、自分が全力を出し切って3分12秒4という日本記録を6秒も縮めたことに、満足感と喜びを感じていたと語っています。

しかし、帰国後、当時の東京市長であった永田秀次郎は、秀子に向かって「なぜあと0.1秒を縮めて金メダルを取れなかったんだ。私はそのことが悔しくてたまらない。4年後のベルリンオリンピックで頑張ってくれ。日本女子で日の丸を掲げられるのは君しかいない。」と述べました。

0.1秒差が悔しい?

また、名古屋市の椙山女子専門学校にも「0.1秒差で金メダルを逃したことが悔しい。次のベルリンで頑張ってください。」という激励の手紙が多く寄せられました。

秀子はこれらの言葉に押しつぶされそうな気持ちで故郷に戻りましたが、そこにも同様の手紙が山積していました。

秀子は、今まで好きで続けてきた水泳で、ロサンゼルスオリンピックに出場できたことに十分な満足感を持っていました。

しかし、この先も水泳を続けられるのか、苦しい練習に耐えられるのかと悩む日々が続きました。

そんな中で秀子を奮い立たせたのは、生前の母の言葉でした。

「一度始めたことは、どんなに辛くても最後までやり遂げなさい。」秀子は「ベルリンオリンピックを目指そう」と決心し、椙山女子専門学校での練習に励むことにしました。

ベルリンへ!そして、金メダルを!

1936年、ベルリンオリンピックの年が到来しました。

「金メダル間違いなしだ」といった言葉が秀子にプレッシャーを与え続けました。

ベルリンでは日本人選手たちが多くの競技で素晴らしい成果をあげていました。

陸上競技では、田島直人選手が三段跳びで優勝し、マラソンでは孫基禎選手が金メダルを獲得。

水泳競技でも、多くの選手が表彰台に立つ活躍を見せました。

同僚が入賞して励みに

秀子にとって嬉しい出来事は、同じ椙山高等女学校で一緒に練習してきた橋本町出身の小島一枝選手が400メートル自由形で6位に入賞したことでした。

8月10日の夜、翌日の決勝を控えた秀子は、外国選手たちのタイムや泳ぎ方が頭をよぎり、なかなか眠れませんでした。

そして、迎えた決勝の日、8月11日。

決勝の時刻まで、秀子は落ち着かない時間を過ごしていました。

お守りを手に取り、「どうか助けてください」と祈りながら、試合に挑むことを決意しました。

決勝のスタート台に立った秀子は、「お母さん、助けてください」と心の中で叫びながら全力で泳ぎました。

その時、NHKの河西三省アナウンサーが実況で「前畑がんばれ!前畑がんばれ!前畑がんばれ!・・・あと4メートル、あと3メートル、あと2メートル、あっ、前畑リード!勝った!前畑が勝ちました!」と叫び、日本女子初のオリンピック金メダリストの瞬間が生まれました。

2位はドイツのゲネンゲル選手で、タイム差はわずか0.6秒でした。

優勝を知った秀子の兄は、仏壇に秀子の勝利を報告し、橋本の町は喜びで大騒ぎになりました。

表彰台に立ち、日の丸が揚がるのを見つめながら、秀子は涙を流していました。

ガンバレの日は実況が由来 まとめ

前畑秀子の残した功績と、その背後にある人間ドラマは、今日でも日本人の心に深く刻まれています。

最後までお読みいただきありがとうございました!