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6月12日は日記の日!記念日の由来は「アンネの日記」から

6月12日は日記の日!記念日の由来は「アンネの日記」から 6月

6月12日は日記の日だね!

学生時代にアンネの日記を読んだけど、衝撃的だったなぁ。

戦争がテーマでなければ、秘密基地での暮らしみたいなのにね…。

今回は、6月12日が日記の日になった由来やアンネについて紹介するわ!

6月12日は「日記の日」とされています。

この日は、ユダヤ系ドイツ人の少女アンネ・フランクが『アンネの日記』を書き始めた1942年にちなんでいます。

6月12日は日記の日

1942年、アンネ・フランク(1929~1945年)は、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害から逃れるため、オランダのアムステルダムで家族と共に隠れ家に身を潜めました。

この日、6月12日の彼女の13歳の誕生日に父親から贈られた日記帳に、彼女は書き始めました。

日記は、1942年6月12日から1944年8月1日までの約2年間の記録が綴られています。

アンネ・フランクの運命

1944年8月4日、隠れ家は密告によって見つかり、アンネたち8人はドイツ秘密警察に捕らえられ、ポーランドのアウシュビッツへ送られました。

アンネはその後、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で発疹チフスにより、15歳で命を落としました。

生き残ったのは父親のオットー・フランクのみで、彼の努力によってアンネの日記は出版されました。

この日記は、60以上の言語に翻訳され、2500万部以上が売れた世界的ベストセラーです。

『アンネの日記』の意義

『アンネの日記』は、ナチス占領下のアムステルダムでのユダヤ人の生活を描いた貴重な記録です。

思春期の少女の日常や成長、そして戦争による悲劇を描いたこの日記は、聖書に次ぐベストセラーとされています。

アンネは13歳の時から、自分の日記を出版することを夢見ており、日記の内容を推敲していました。

日記を書くことの価値

「紙は人間より辛抱強い」という言葉を引用しながら、アンネは孤独な心情を日記に綴っていました。

現代では、オンラインの記録サービスが普及し、日記を公開してリアクションを得ることが一般的ですが、たまには紙に感情をぶつけてみてはいかがでしょうか。

誰にも読まれることを前提としない日記には、自分の本当の気持ちを素直に書き記すことができます。

今、日記を書いてみよう

生活が大きく変わる中で、正直な気持ちを日記に書き留めてみてはいかがでしょうか。

日々の喧騒を乗り切るヒントや、小さな幸せに気づくきっかけになるかもしれません。

アンネフランクの生涯

アンネ・フランクは1929年6月12日、ドイツのフランクフルトで誕生しました。

彼女には3歳年上の姉、マルゴットがいました。

当時のドイツは経済的に困窮しており、生活は厳しいものでした。

アドルフ・ヒトラーが率いる政党が台頭し、ユダヤ人を差別し、ドイツの問題を彼らのせいにしていました。

この反ユダヤ感情と経済の不況が、アンネの両親、オットーとエーディトにアムステルダムへの移住を決意させました。

オットーはアムステルダムでジャム作りに使うペクチンの取引会社を設立しました。

オランダでの生活とナチスの侵攻

アンネはオランダの生活にすぐに適応しました。

オランダ語を覚え、友達を作り、近所の学校に通いました。

オットーは懸命に働きましたが、生活費を賄うのは簡単ではありませんでした。

そのため、彼はイギリスでのビジネスにも挑戦しましたが、成功しませんでした。

そこで、ペクチンだけでなく香辛料の販売も始めました。

1939年9月1日、アンネが10歳の時、ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まりました。

1940年5月10日にはナチス軍がオランダにも侵攻し、5日後にオランダは降伏しました。

ナチスは徐々にユダヤ人の生活を制限する法律を導入しました。

ユダヤ人は公園や映画館、商店への出入りが禁止され、アンネの父は会社を失い、ユダヤ人の子供たちは専用の学校に通わなければならなくなりました。

隠れ家への移動

ユダヤ人への迫害が激化し、ユダヤ人は「ユダヤの星」を着けることが義務付けられました。

1942年7月5日、マルゴットにナチス・ドイツの労働キャンプへの召集令状が届き、両親はそれが労働のためではないと信じ、翌日から隠れることにしました。

オットーはプリンセン運河263番地の会社の後ろの離れ家を隠れ家として準備し、1942年春から準備を進めていました。

会社の従業員たちも協力してくれました。

隠れ家に引っ越した直後、さらに4人が加わり、隠れ家は小さく、常に音を立てないように注意し、恐怖に怯えて過ごしていました。

日記を書く

アンネは13歳の誕生日にプレゼントとして日記をもらいました。

隠れ家での生活の中で、アンネは日記に出来事や感情を書き綴りました。

それだけでなく、短編や小説、「お気に入りの文の本」に読んだ本からの抜粋を書いたりもしました。

書くことはアンネにとって大きな慰めでした。

ある日、イギリスに亡命していたオランダ政府の教育大臣が、ラジオを通じて人々に戦時中の日記や書類を保存するよう呼びかけました。

それを聞いたアンネは、日記を「後ろの家」というタイトルでまとめることを思いつきました。

隠れ家の発見と逮捕

アンネは日記の清書を始めましたが、その作業が終わる前に、1944年8月4日、隠れ家は警察に発見され、住人全員が逮捕されました。

なぜ警察に隠れ家の存在が知られたのかは現在も不明です。

警察の襲撃後も、日記の一部は他の支援者によって隠され、保存されました。

強制収容所への移送と最期

隠れ家の住人たちは、ドイツの治安警察によってアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られました。

アンネとその家族は3日間の過酷な列車移送を経験し、アウシュヴィッツに到着しました。

そこでアンネは母と姉と共に女子労働施設に送られ、オットーは男子収容施設に送られました。

1944年11月、アンネと姉はベルゲン・ベルセン強制収容所へ移送されました。

過酷な環境の中、アンネとマルゴットは発疹チフスにかかり、1945年2月に亡くなりました。

アンネの日記の出版と影響

戦後、アンネの日記を見つけたオットーは深い感銘を受け、1947年に「後ろの家」として出版しました。

アンネの日記は約70の言語に翻訳され、劇や映画としても上演されました。

1960年には隠れ家が「アンネ・フランクの家」という博物館になり、オットーは1980年に亡くなるまでアンネ・フランク財団と博物館に深く関わり続けました。

記念日にはアンネに倣って日記を書いてみよう まとめ

6月12日は「日記の日」とされており、この日はアンネ・フランクが1942年に『アンネの日記』を書き始めたことに由来しています。

最後までお読みいただきありがとうございました!