3月2日は遠山の金さんの日だね!
「この桜吹雪が見えねえか!」のセリフがしびれるよね。
金さんは遊び人の設定で、町人の噂とか探ってるのよね。
今回は、3月2日が遠山の金さんの日になった由来や雑学など紹介するわ!
1840年3月2日、遠山金四郎景元、通称「遠山の金さん」として知られる人物が、江戸の北町奉行に就任しました。
この日は、江戸時代に活躍したこの名奉行の記念すべき日として、時代劇ファンには特に親しまれています。
3月2日は遠山の金さんの日
「遠山の金さん」の伝説は、彼の死後、講談や歌舞伎を通じて広がり、後の時代小説やテレビドラマによってさらに人気を博しました。
遠山の金さんが持つ象徴的な「桜吹雪」の彫り物は、さまざまな伝承がありますが、テレビドラマの影響で広く認知されています。
しかし、彼がドラマのように名裁判を下した記録はほとんど残っていません。
町奉行は、江戸時代において警察や裁判所の役割を果たした重要な公的機関でした。
町奉行所は、町人たちの生活や安全を守り、広範囲にわたる行政業務を担っていました。
江戸には北町奉行所と南町奉行所の二つが設置されており、それぞれ現在の東京駅八重洲北口付近と有楽町マリオン付近に位置していました。
遠山の金さんは実在の人物?
遠山景元は、実在した旗本で、彼の子孫には東京都千代田区長を務めた者もいます。
これらの行動が、後の物語の題材となる多くの要素を彼に与えました。
北町奉行所と南町奉行所の場所は時代によって変わっていますが、現在でもその地に碑が建てられています。
興味がある方は、その歴史的な場所を訪れてみると良いでしょう。
遠山の金さんとはどんな人?
遠山金四郎、時代劇で親しまれるキャラクターとしても知られていますが、彼は実際に江戸時代に旗本として活躍した人物です。
彼の生涯や功績に興味を持つ人は少なくありません。
特に、彼の収入に関心を寄せる方も多いでしょう。
遠山の金さん、正式には遠山金四郎景元と名乗り、1793年にこの世に生を受けました。
彼は、8人の子供を持つ家庭を築き、1855年に亡くなるまでの62年間、多くの功績を残しました。
裁き方が将軍にも認められる
特に、徳川家慶将軍や老中水野忠邦といった時代の大物からも認められた彼の裁きは、今でも語り草になっています。
水野の天保の改革に対しては庶民の側に立って反対し、文化や芸術を守るためにも尽力しました。
彼の生き方や仕事ぶりは、後の世に多大な影響を与え、今日に至るまで多くの人々に親しまれています。
遠山の金さんの年収
では、遠山の金さんの年収について。
彼が町奉行として受け取っていた年収は、当時の価値で約3500石とされています。
これを現代の貨幣価値に換算すると、約3億1500万円に相当すると推測されます。
旗本としての基本収入に加え、町奉行としての役職給も含まれており、この金額は彼が担っていた重責を考えれば妥当なものと言えるでしょう。
遠山の金さんの仕事内容
遠山の金さんが日々こなしていた仕事は、現代でいう警察や裁判所、消防など、市民の安全と公共の秩序を守るためのものでした。
そのため、北町奉行所と南町奉行所は、それぞれの月番で新規の事件を担当し、様々な案件を処理していました。
遠山の金さんが勤務する町奉行所は、その時代の江戸市民にとってなくてはならない存在でした。
遠山の金さんのように、激務をこなし、庶民のために尽力した人物が、高い収入を得ていたことは、彼の貢献を考えれば自然なことかもしれません。
遠山の金さんのドラマは時代劇の中でも名作 まとめ
一般的に、2~3年で辞任することが多い町奉行職において、遠山金四郎は北町奉行と南町奉行を合わせて10年近くも務め上げました。
彼の長期にわたる奉職は、庶民からも深く愛される特別な人物であったことを示唆しているかもしれません。
ぜひ記念日には、遠山の金さんの時代劇などを見て、悪者をやっつける姿にスカッとしてみてください。
最後までお読みいただきありがとうございました!